建築探偵處

建築探偵団の成果「文化財登録記念冊子」限定本

春爺ちゃんの家の話ーユートピアを夢見た男

「 俗・世間遺産放浪記」藤田洋三著/石風社ー第2弾!!「あをぎり」の二階「菊の間」をご紹介いただいた!!267(ボタ山の見える窓)

あをぎり流(ブルースバンド・勘太郎さんをお招きした時!)
あをぎり流「古い館の活用法」
―当館「あをぎり」は百数十年にも及ぶ建物です。
例えば・・● その1/何時もくまなく掃除する。
その2/拝んだり、奉ったりしない。
その3/風通しをよくする。
その4/色んな「音」が、よく聞こえるようにする。
その5/その様なわけで。―あをぎり恒例「御座敷ライブ」
内田勘太郎氏・参上!!幻のブルース・バンド「憂歌団」のギタリスト!
6月10日(日曜日)/3500円・ワンドリンク付きー軽い食事もできます!!
詳しくはhttp://www.awogiri.co.jpへお訪ねくださいませ。
そして、勝手なおねがいですが・・・。ホーム・ページをお持ちの方は「お知らせ」
メニューか告知・掲示板などにリンクいただけますと幸いです。ブルース・ファン
ギター少年等々・・・。には堪えられない夜をお約束します。御座敷でのライブ体験を
是非、この機会にどうぞお楽しみくださいませ。よろしくお願いします。
「御セッカイ講座」総集編!!―あをぎり・ホーム・ページのイベント・メニュー
に御セッカイ講座の①~⑥までのプロローグが記してあります。http://awogiri.co.jp/event.htm/
この講座の講師:藤田洋三氏の「放浪記シリーズ」3冊と出逢い勉強させていただきました。当日は「もうひとつのヘリテージ」を御紹介したく「世間遺産放浪記」(石風社)
絶賛販売!!どうぞ、お求めいただけますと幸いです。
「もうひとつのヘリテージ」これは人生を濃く、深く味わう探検です!―女将お勧め本!
「人生をもう、ひとひねり・・・。ご一緒、しませんか?」―不良女将より・・・。

旧林田春次郎家主屋ならびに迎賓館 建築所見
藤原惠洋 工学博士 九州大学大学院芸術工学研究院教授
◎本屋
旧林田春次郎家は田川市伊田地区の新町の高燥な高台に位置する。元来、大正3年に建てられた植木家屋敷をその後大正7年に林田春次郎が購入・所有し主屋とし、さらに昭和9年に迎賓館を加えた豪邸である。敷地の形状から、主要な棟を南北に伸ばした配置であるため、主たる開口部は主として東西向きに建てられている。とくに東真正面に一帯の聖なる山稜とも言える香春岳を見据えており、伊田界隈の低地から見上げる迎賓館はその銅板葺屋根の偉容から通称「銅(あかがね)御殿」と称されている。
主屋は木造2階建入母屋造桟瓦葺ならびに木造平屋建寄棟造桟瓦葺、それぞれの棟を鍵型に直行させた民家である。正面玄関となった2階建部の外観は妻部の棟端に鬼瓦を載せ、重厚な様相を示す真壁造りである。西向きに入る玄関土間から奥は床張りの待合いと廊下から畳敷きの二列三室の整形六間取り座敷が展開していく。東面の前庭に面した間口には長押を打ち回して威儀を正した書院造の各十畳間三部屋を続けて並べる一方、西側三部屋には長押を回さず簡略化した八畳間を控えの間のように配置した。同時に、北側最奥の座敷二列に床の間を設けた。座敷天井は玄関に続く東西一列のみがおおぶりの松材を用いた根太天井とし、北側4部屋はすべて竿縁天井とし、座敷間には繁格子を建て込んだ欄間飾りを見せている。
平面は、東西南北四周を廊下で囲む回り廊下形式を見せており、大正以降に生じる中廊下形式以前の巨大な禅宗方丈的な造りを髣髴とさせる特徴を見せる。土庇による縁側天井は化粧垂木とし、床材には欅を用いている。大黒柱、戎柱、座敷の床柱にはそれぞれ欅の銘木を使っている。
平屋建の小屋裏には植木家上棟祭式時に用いられた角材が確認されており、表面の墨書によれば普請棟梁は「大分県日田村三苫村吉」の名を持つ。続いて「大正参年○月十四日上棟 天下太平家内安全 建設植木與○四十壱歳」と解読できた。植木家の末裔の方々への聞き取りでは、普請時には日田大工が地元の日田から建材を山越えしながら搬送して来たと伝わる。この平屋建は屋根を一段あげ土庇を回す明治期から大正初期にかけての民家の外観特徴を持つ。また玄関から続く最初の東西部屋の柱梁部には数多くの削り箇所やほぞ穴の痕跡が認められており、明治以来の整形六間取り平面を継承する平屋建の最南端部を二階建とし増改築した可能性が考えられる。
◎ 迎賓館
林田春次郎(1875〜1956)は34歳伊田村長、39歳伊田町長、41歳福岡県会議員当選、53歳福岡県会議長、68歳で市制施行後の田川市の初代市長となっているが、若い頃から伊田を始め田川市の基盤施設整備や産業誘致に大きな貢献があった。銅御殿と称された木造総二階建入母屋造銅板屋根葺下見板張仕上げの迎賓館は、最北端の望楼を兼ねた奥書院の床の間違い棚天袋引き違い襖に記された俳句「国政を 講ずる庭や 菊香る 昭和九年」の墨書により昭和9年11月頃の竣工と考えられる。前年には伊田、金川両町村が合併、自治功労者として新宿御苑で開催された観桜会に招待されており、引き続き昭和9年には皇太子御降誕ならびに合併記念事業として複数の神社修築に醵金を提供している。この頃の林田春次郎は国政をめざす勢いであり、数多くの支援者達を歓待する迎賓館として本建築を建てたと考えられる。故熊谷和幸氏(甥)への聞き取りでは、設計施工には宮大工が関わったと伝えられており、錺金具職の国沢、大島大工の石川勝一、棟梁の三苫大工(日田出身の三苫村吉と考えられる)が関与したと伝わる。
小屋組の三間半の梁間にはキングポストトラスを用いており、現存状況も不陸は見られず良好である。2階の大広間は現在「山の間」15畳と「月の間」12.5畳の二間続きの座敷からなり、さらに4畳の奥書院「奥の間」が続く。主たる柱材に檜四方柾材、格調高く長押にも檜を用い書院造の威儀を示した。天井は折上げ格天井とし鏡板には荒目の神代杉を用いる。小壁を高く上げ檜の長押を二重に打ち回す。床柱はいずれも絞り磨き丸太杉とし、山の間は一間半に及ぶ畳床と檜黒漆塗りの床框、並ぶ床脇は欅拭き漆仕上げの違い棚に同じく欅板拭き漆仕上げの蹴込み床とし、月の間は黒漆塗り檜床框を組ませ、違い棚は欅板の木目を拭き漆仕上げで強調した。座敷と次の間境の上部には、菊をあしらった独特の意匠を繁格子に施した欄間が嵌められている。
続く奥書院は北東端の角部屋となっており眺望もひときわ優れている。格天井や開口窓部の菊水紋の透かし意匠や外部欄干周りの造作が細部まで見事に仕上げられており、特別な来客用小間として最も重要な空間を醸し出している。
各部屋を繋ぐ幅一間の入側廊下は床材を檜とし、東真正面に香春岳を臨む。客人は宿泊時の朝日や観月への眺望をたんのうしたであろう。客階段からのホールの役割も兼ねており、おおらかな滞留空間として活用されうる。
最北面床の間の背面には便所が配置され、西側にはサービス用の半間幅廊下を通し裏階段につないだサービス動線が配慮されている。
一方、下階は部屋を三部屋に小割りにし、銘木をふんだんに用い趣向の異なる床と違い棚、欄間飾り等による造作と意匠性が特徴的である。戦後は昭和26年より旅館業を開始、現在の女将の祖母が初代女将として客人をもてなし宿泊に対応していたという。平成元年から旅館業の傍ら披露宴等の祝宴等にも用い、平成5年より「料亭あをぎり」として活用、平成8年に旅館業を廃止、割烹専用として主屋座敷と迎賓館下階部屋を用いている。
◎ 総合的な所見
田川市の初代市長をつとめた林田春次郎の旧邸は、大正3年竣工の整列六間取りの伝統的民家の特徴と昭和9年竣工した木造総二階銅葺入母屋造の絢爛豪華な離れの特徴が対比的かつ複合化しながらも適切に連携しあう豪邸として美しい外観を見せている。
田川市の初代市長の私邸のみならず迎賓館的な役割を担うことが期待されていたため、明治期民家を発展させた座敷の間取りや技術的な変革、昭和初期の堂宮技術を援用しながら造作された木造和風建築の近代性、それらが相俟って重要な大正・昭和の遺産性を発揮している。
また敷地は香春岳を絶好の高台であり、眺望と同時に、銅(あかがね)御殿はランドマークとしての役割も発揮していた。さらに地方政治の勇として活躍した林田春次郎の顕彰拠点として重要な意義を有する。

コメントは受け付けていません。